報道の自由と報道の義務と報道の罠

きっこの日記(2006/11/15分)

ここで詳細を書くことは避けます。
遺族の方のコメントが不自然に切り取られ、意図的な方向付けをされて報道されるというパターンですね。無いものを作る(しゃべっていないことをしゃべっているように捏造する)のは非常に困難ですが、有るものを消す(しゃべっていたことを報道しない)のは簡単ですからね。編集過程でトリミングすればいいだけですから。
 
いつも思うのですが、報道のカメラやテレコを向けられて取材されるような場面で、その取材を受けている人間ができる「自分の意見、意志、思想が故意に偏向される」事への自衛策ってないんでしょうかね。
自前のカメラを家族や知人に(しゃべっている自分や、取材している報道関係者もフレームに入れながら)撮影してもらい、それを報道機関にも事前事後に宣言しておくとか。変なカットの仕方をしても、その前後のテープをインターネットなり別な報道機関なりへ公開する事が可能だから、あまりへんな加工をしないように。みたいな。
あんまり度が過ぎると煙たがられて全てカットされる可能性もあるが、その場合でも自前のテープが有るのだからどうにでもなる。
 
本当は「いや、あの局はあんな報道してるけど違うんだ!うちはカットせずに報道します!」みたいな局や責任者が現れてくれるのが理想(一種の自浄作用)なんですけどねー。
カメラも安いモノじゃないし、インターネットへ自由にアクセスできる環境も万人に等しく与えられているわけではない。
マスコミには、その力を人を傷つけたり蹴落としたりする為だけでなく、本当の意味で人を守ることにも使って欲しいぞー。
 
そんなことを連日考えていたら、自分が何かトラブルに巻き込まれた時の記録ができる何かが無い(画質の悪い携帯やデジカメくらいしかない)事に気付く。準備しておきたいので中古のデジタルビデオカメラを下見することにする。
いや、別に何か事件を起こすようなつもりはサラサラないのですがw