「外人」と「外国人」の使い分けについて

某所で見かけたので、自分なりの意見を書いてみることに。
 
まず、私自身のスタンスとしては、「この2つを意識的に使い分け、普段は「外国人」と呼んでいる人」になります。差別的な意味も含め、「外人」という言葉を使うことはほとんどありません。
 
明確に示せる使い分けの根拠は持ち合わせていません。これは、私が幼少時代より親から躾として教育されたせいもあると思います。保守的な親から理屈抜きで与えられた価値観のため、現実的な事例やデータは無いのです。
 
 
一方異なる意見を持つ方々には、「外人」は「外国人」の略語であり、意識的に使い分ける意味は無く、もちろん「外人」という言葉に差別的な意味を乗せてなどいない、という意見が多いようです。それはそれでなるほどと思います。言葉だけでなく、その場の雰囲気や前後の文脈を見れば、都度説明しなくても差別的な意図が無いことは容易に伝わるでしょう。
 
が、テレビなどの放送・報道では未だに「外人」という言葉を意識しているように、私のような(保守的、なのかな?)言語感覚を持っている人間も少なからずおります。
特に年齢の高い人や教育・報道関係者には、差別的発言だと短絡的に捉える人すら居ると聞きます。
そういう人を前にした時には、たとえ自分に差別的な意図がなかったとしても、「外人」という言葉は控えるべきだと考えています。
 
もちろん、誰がどんな言語感覚を持っているのかすぐに分かるわけもありません。気心の知れた仲間や、過去にそういった話題で意識の摺り合わせが出来ている相手なら問題ないでしょうが、たった一言で心証を害する相手もいることは忘れてはならないと思います。
要は、「外人」という言葉は未だにTPOによる使い分けが必要な言葉だという事です。
 
 
そういった意味からも、私は普段から「外国人」という呼び名を使うべきだというスタンスな訳です。誰も損をしない、ベターな選択だろうとの考えからです。
勿論そういう感覚を持つ私としては、不特定多数に対して「外人」を連呼する人は、そういった周囲の感覚の差異に鈍感なんだな、という印象を受けます。決してその場で指摘・修正するような事はしませんし、相手に差別意識の有無があるのかまで詮索する事もないですが、やはり自分との意識の違いは意識せざるを得ません。
止めろ、とは言いません(言えません)が、自分の発した言葉で相手が不快になったりするリスクを背負っているという事は忘れて欲しくないですね。他の差別用語と同様、受け取り手によって解釈が違うという、非常に微妙で繊細な言葉であると考えておくべきです。
 
 
使い分け派から一言言うとすれば、たとえ自分にそういう意識がなくとも周囲が気を使う場面があり得る以上、それなりに注意深く使うべきではないか、という事に尽きます。
私のように躾として潜在的に埋め込まれた価値観は、理屈で分かっても容易に変える事はできません。特に年齢の高い方ならなおさらです。
自分の理屈をごり押しして相手のココロの見えざるスイッチを押してしまわぬよう、相手や状況に応じた使い方・配慮が必要な言葉だと思います。