藤田社長の判決(と、それより大事な告発文について)

内容が内容だけにちょっと本気で書く。いつもと文体が違うが、これが私の脳内での口語体。思ったことをキーボードを経由してここに記録しておく。
きっこの日記 2006年10月17日分
きっこの日記 2006年10月18日分
今まで、政府やマスコミによる情報操作なんて(多分あるんだろうけど)それを目にすることなど無いと思ってた。どこか遠い場所で、自分とは全く違う世界を生きる人たち同士でやるような、映画やドラマや小説や漫画なんかの中の出来事だと思ってた。
でも、18日の昼にきっこの日記の17日分を読んで、主要メディア、ニュースサイトを探し回った結果、この情報操作っていう恐ろしい事象が今実際に自分の目の前で進行中だってことに気づいて、言葉を失った。
記者会見で印刷物として配って、しかも本人も口調を強めて話しているハズなのに、どの新聞もニュースもそれを書いてない。判決のことや耐震偽装との関係についてしか書いてない。ひどいところは2〜3行。
起きたことが報道されていない。これって起きていない事を報道するより恐ろしいことだ。知らされたことなら本当かどうかを各自が調べて考える余地があるが、知らされないということはそれすら行わせないからだ。
インターネットへのアクセス手段を持たず、未だに特定の新聞やニュースだけを見ている人たちが藤田社長の告発文やメッセージを目にするのはいつになるのだろう。目にすることができるのだろうか。きっと、こうして自分の脳へ届かない多くの事実が世の中にはあるんだろうけど、それを垣間見てしまったことで、かえってそれを強く意識されられてしまった訳だ。
もちろん、藤田社長の告発文やメッセージの現物を自分の目で読んだわけじゃないから、実はきっこさんの日記に操作されてるのかもしれない。その可能性はゼロじゃない。でも真実である可能性は、それよりずっと大きい気がする。
ニュースも新聞も信じられなくなったら、その出来事から遠い人間は何をもって真実を知れば良いのだろう。その時は知らぬ事が真実なのかもしれないが、それは当事者にとっても部外者にとっても悲しいことでしかない。
何を信じ何を疑うか、それが人間に与えられた究極の自由、そして責任なのだと思う。
歴史とは人類の記憶であり壮大な日記。記憶を巧みにねじ曲げ上手に覆い隠しても、むしろ残されたひとかけらの真実が、やがて煌々と日記の闇に浮かび上がると信じたい。
知ってしまった者として、この一件の行く末をしっかり見守っていくつもりだ。

以下はいつもの文体で。